こんにちは!鴨井(@kam0_gerrar)です。
僕は普段慶早進学塾という大学受験、高校受験向けの学習塾を運営しています。
受験の塾と言えば、毎年冬に入試が行われ、生徒が結果を出し、塾としての実績を重ねていかないと、世間から良い評価を得ることができません。
もちろん塾が評価される対象は他にもあると思います。
例えば、
- 快適な学習環境や空間が欲しい。
- 勉強の管理をしてほしい。
- 勉強や受験の情報がほしい。
などがあります。
しかし突き詰めて考えると、結局の所学習塾にお客様が最も求めていることは「成績の向上」だと思うのです。
もしそうじゃないとするならば、学校がありますから、わざわざ高いお金を支払って、塾に通わせようとはしないでしょう。
学校だけでは勉強面で心配だから、足りていないから、だからこそ塾に通わせるという選択肢が生まれるのだと言えます。
つまり、毎年毎年常に結果を求められる世界だということ。
そういった世界に実際にプレイヤーである受験生の時から、そして受験生を引退し指導者の立場になってからもずっと毎年毎年冬になると結果を求められてきました。
特に受験生を教える立場になってからは、年によって波はあるにせよ、毎年一定の成果を残してくることができたと思います。
ちなみに2018年度の慶早進学塾の合格実績をまとめた記事があるので、ぜひ見てください。
一方で僕の受験生の時は、なかなか最後の本番の部分で結果に繋がらなかった。
そういった酸いも甘いも経験してきた僕だからこそ、「結果」と「過程」の関係について伝えられることがあるのではないか?と思い、こうして記事にしているわけです。
あなたは「過程」と「結果」どちらが大事だと思いますか?
プロセスを重視するでしょうか?
それとも結果が全てだと考えているでしょうか?
昔の教え子の話を一個用意しました。一緒に考えていきましょう。
Contents
二人の東大志望だった教え子の話
これは2017年の入試の話です。
当時東大志望の生徒が二人いました。二人とも非常に優秀な子で、一人は慶早進学塾岐阜校が設立されてすぐに入塾し(T君とします。)、もう一人の子はそれから1,2ヶ月後に岐阜校に入塾してくれました。(もう一人の子をK君とします。)
僕が二人と初めて会った時、二人とも東大の判定がC判定(合格可能性50%程度)の状態でした。
二人とも入塾してから、僕と二人三脚で勉強し始め、順調に成績が伸びていきます。
そして6月に四大予備校最初の東大模試が東進で行われ、二人とも揃って受験し、なんと二人ともA判定を獲得するまでに至ったのです。
二人の生徒の成績
その後夏、秋と随時東大模試が行われ、順番に東大模試を二人は受験していきます。
最初に入塾したT君は立て続けに東大模試でA判定を重ね、秋の代ゼミの東大模試でB判定だった以外は全てA判定を揃えました。
これって実際に東大を目指して勉強してきた子なら分かることではありますが、現役生が東大模試で常時A判定を取ることはなかなか簡単なことではありません。
現役生は基本的に夏秋くらいまでは浪人生よりも勉強が進んでいないことが多いですし、どの子も明らかに勉強が進んでいない科目が複数あるものです。
それにも関わらず、A判定を一回だけではなく、基本的にずっと取り続けているということはそれ相応の学力があるという風に捉えて何も問題ないでしょう。
一方でK君はT君ほど圧倒的な成績ではありませんでした。
もちろん中にはA判定を取れた東大模試が複数あったことは間違いないですが、C判定までしか出なかった東大模試も複数個ありました。
少なくとも模試の判定を見る限りでは、安定感があるのはT君であり、僕も当時はT君よりもK君を心配していた記憶があります。
T君とK君の2次試験の様子?
そんなこんなで2017年度の東大入試が行われます。
1次試験のセンター試験は問題なく結果を残した二人です。2次試験の結果でダイレクトに東大の合否が決まるという状況でした。
東京大学の入学試験は科目数が多く、また1科目あたりの試験時間が長いため、2日にかけて行われます。
二日間の時間割はこんな感じです。
2/25 9:30~11:10 国語
2/25 14:00~16:30 数学
2/26 9:30~12:00 理科
2/26 14:00~16:00 外国語※二人とも理系の生徒であったため、理系の時間割を掲載しています。
東大模試でA判定を並べることができるだけの優秀な生徒の場合、その多くは実質数学の得点でそのまま合否が決まることが非常に多いです。
なぜなら、国語は配点が低く、そこまで大きな差が付くことはあまり起こらず、また英語や理科は実力が高い子はきっちり高得点を稼いできますし、また波乱の起こりにくい科目です。
しかし数学に関してはケアレスミスや一個の失敗によるダメージが非常に大きい科目なので、実力があっても低い結果になることがよくあるからです。
さて話を戻しましょう。
今でも忘れられません。
僕はこの二人の生徒と試験の休憩中にチャットでかなりの数やりとりを重ねていました。
模試の際などは毎回これをやることがお決まりになっていて、これを通じて生徒の状況を把握したり、メンタルのケアをすることを欠かさずに行ってきました。
初日の数学の試験が終わり、僕は生徒二人からの連絡を待っていました。
先に連絡がきたのがK君。
K君は僕に
「やばいかもしれない」
と連絡を送ってきました。
僕はT君よりもどちらかというとK君の方が数学の安定感がなく心配でしたから、悪い方にいってしまったか、と心臓が飛び出るくらい焦りました。
そしたら、
K「過去最高の出来。まじで簡単。どんなに低く見積もっても合格点は切らない。」
と連絡がきました。
おいおいびっくりさせるなよwと思いました。本当に終わったと思ったじゃねえか…。
しかし僕は心底ほっとしました。初日の数学が最高の出来なら、彼の英語と理科の成績ならまず間違いなく合格できます。
しかし、その安心もつかの間、K君からこのようにきました。
K「僕のことはもう心配しなくて大丈夫。それよりもTが心配。僕も連絡がつかない。鴨井さんもTのフォローをしてあげてほしい。」
と。
この大一番で「僕のことはもう心配しなくて大丈夫」という言葉が出てくることに成長を感じつつも、確かにT君のことは心配です。
事実、確かに、T君から連絡が来ていませんでした。
僕も急いで、T君にチャットを送ります。
すると少ししたら返信がきました。
T「明らかに例年よりも問題が簡単だったのに、難しく考えすぎて、時間を無駄に使いすぎて、頭が真っ白になった。1完しかできていない。」
T「鴨井さんどうしよう。模試でも取ったこともない点数になると思う。」
※東大の理系数学は6問出題されます。2017年の数学は実は伝説級に数学が易化した年でした。その中で1完、つまり1問しか解けていないことは致命的です。
今だから言えます。本人には見せませんでしたが、僕はこの時、素直に「ああ、これは本当にやばいやつだ」と思いました。
2017年の数学の難易度が例年よりも明らかに簡単だったことは、試験を終えて数時間も経過すれば、僕も、そして実際に受験したK君もT君も分かっていたことです。
つまりさほど数学で実力がない子でも2完、いや3完と平気でしてしまう。
そのような中で、数学に特別苦手意識のない、また事実上ここで合否が決まると見られていた数学での大失敗です。
しかし東大の入試は二日間に分けて行われます。
まだ勝負が決まったわけではありません。次に備えて今はできることを行うのみです。
そう自分に言い聞かせて、T君のケアに努めました。
勝負の2日目
2日目は特別大きな不安要素はT君に対してもK君に対してもありませんでした。
K君は初日の数学でうまくいったため、あとは安心してやるだけでしたし、T君は元々物理と英語が非常によくできる生徒でした。
淡々と時間が経過し、二人からほぼ同時に連絡がきました。
二人とも反応は、
「いつも通りだと思う。英語が少し難しかったかな?」
という内容でした。
二人の合否結果
東大の試験日は毎年2月25日、26日です。
そして合格発表日は3月10日に発表されます。
試験が終わってから大体2週間時間が空くんですよね。
T君にとってこの2週間は本当に地獄だったはずです。
やはり数学で完答できていたのは1問のみで、あとは残り5問でどれだけ部分点がくるかどうか。
正直言って合格は五分五分の状況でした。
そして2017年3月10日。
まず最初に連絡がきたのはK君でした。
K君「鴨井さん、東大合格したよ。まあ正直この数学の出来なら合格は確信してたけど。」
僕もK君が合格するのはまず間違いないと思っていました。K君と同じ感想です。
そして慶早進学塾史上で初めて東大の合格が出た瞬間ですから、嬉しくないわけがありません。
しかし僕もK君も考えていたことは一緒です。
T君の合否の結果はどうだったのか?
ほどなくしてT君からも連絡がきました。
僕「結果どうだった?」
T君「うん。」
T君「受験番号なかった。僕落ちたみたいだ。」
…
…まじか。
…
これには僕もへこみました。
毎年生徒の頑張りを見ながら仕事をさせてもらっています。
特にT君の頑張りは誰に対してでも誇れるものであったと普段の勉強を見ていた僕なら言えます。
しかし結果は不合格です。
途中までの過程で優れていたT君が不合格で、やや安定感に欠けていたK君が合格。
これが一発勝負の恐ろしさなんだと思います。
まさかの0.04点差
さて東京大学は不合格者には翌日に実際に試験の得点を記載した用紙が各家庭に配布されます。
3月10日の時点ではまだそれが現実に起こっていることだとはなかなか信じられないものですが、この成績表を見て、途端に現実に引き戻されるような感覚です。
実際に当時の生徒の成績表の画像が残っていたので掲載しておきます。
合格最低点が347.1889点に対し、T君の得点は347.1444点。
その差0.04点差です。
東京大学は1次試験のセンター試験900点満点が110点に圧縮され、それに加えて2次試験440点の合計550点満点で合否が決まります。
2次試験で1点でも得点できていたら当然合格ですが、その圧縮される前にセンター試験で1点でも取れていたら(=東大の配点だと0.12点)合格していたということになります。
このたった1点(というか0.12点)で合否を分けたのです。
この絶望が伝わりますでしょうか?
1年間、いや彼は慶早進学塾に入塾するもっと前から、東大を見据えて学習を進めていました。
どれだけ模試でA判定を揃えていても、どれだけ試験前に調子が良くても、本番で合格最低点を超えるかどうかが最も重要です。
そしてどれだけあと一歩の得点を取れていたとしても、それがたった0.04点差であったとしても、足りていないものは足りていないということになります。
いくら東大模試でA判定でも、高校3年間どれだけの時間を勉強に費やしても、そしてどれだけ合格まで近かったとしても、不合格だったという一言で片付けられてしまう。
そんな事実と向き合いながら、T君は自分の中でこの事実をゆっくりと消化し、次の年の東大試験に向けてまた一から努力を開始することになるのです。
※ちなみにこの画像、当時Twitterでめっちゃバズって2ちゃんのまとめサイトとかにも大量にまとめられてたりもします笑
後日T君と一緒に爆笑してました。よければ、「東大 0.04点差」で検索してみてください。
「結果」と「過程」
さてここまで教え子の二人をモデルに、ほぼ脚色なしで、T君とK君の東大受験の物語を話してきました。
「結果」と「過程」、その両面で対称的だった二人。
東大受験までの「過程」が優れていたT君と、「過程」こそT君には劣っていた(まあとは言え一般的に考えたら彼も十分良い過程だったと思いますが。)ものの、最後の「結果」で最高の出来を示すことができたK君。
「過程」を間近で見続けてきた人ならともかく、どれだけ惜しかったとしても、最も重要な場面で「結果」を残すことができなければ、やはり世間は「過程」も否定してしまう。
途中どれだけ優れた「過程」を歩んでいたとしても、です。
また当時、T君自身もそのように受け取っていました。
「不合格」という「結果」を受け取ってしまったことから、一時は自分自身の「過程」も全て否定してしまうかのような態度を取っていました。
あまり良くない「結果」だったとしても、その途中の歩みが全て間違っているかといえばそうでは決してありません。
そこに気づくことができた彼は翌年無事に、そして圧倒的な成績で東大に合格することとなります。本当に良かった。
「結果」を通じてその人の「過程」が推測されるということ
しかしやはり「結果」がその人の「過程」までを決めてしまうということは本当によくあることです。
これは残念ながら変えられない事実のように思います。
だからこそ、常日頃から「過程」と「結果」が極力同一のものとなるよう、意識して努力していくしかないわけです。
でも逆に言うと、「結果」を出していれば世間からの評価は一瞬で変わります。
そしてこれはどの分野でもきっと同じです。勉強であっても、スポーツや音楽、仕事だってそう。
もちろん僕自身も当てはまります。
僕は二年間の浪人の末に慶應義塾大学に進学したのですが、二浪して最後に合格という「結果」を勝ち取ったから、今では「当時はよく頑張ったね」と色々な方から言ってもらえます。
でも実は僕の中で少なくとも勉強を頑張ったのは二浪の時ではなく、一浪の時でした。
二浪の時は色々なことと向き合う貴重な経験ができたとは思いますが、それでも二浪の時に勉強を頑張ったかと言われれば答えは間違いなく否です。
「結果」がその人の「過程」もコントロールしてしまう。
だから、要所で「結果」を残す術を知っておくということ。
また中々「結果」が出なかったとしても、他者からどれだけ評価されなかったとしても、自分自身の中でその「過程」がこの先の良い「結果」と結びつく可能性があるのかを冷静に分析する必要があります。
まとめるとこんな感じです。
⇨「結果」を出すための術を知ることが大事。
⇨「結果」が出てなくても、自分自身では「過程」を冷静に分析すること。
まとめ
「結果」とは時に残酷なものです。
僕もこの「結果」という部分で苦労したことは多いですし、また僕以上に今回登場したT君は大変だったでしょう。
そしてこれで挫けずに、更に「結果」に直結するような「過程」を歩めるよう、努力を重ね、1年後に実際に求めていた「結果」を手にしたT君。
彼が僕の生徒でいてくれたことに誇りを感じています。
このような「結果」が重要視されてしまう世の中だからこそ、「結果」を出すことのできる体質になるべきですし、それと同時に「過程」も評価できるようになっていきたいですね。
それによって救われる人がきっといるはずですから。